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Part2

天海の江戸の京都化計画 Construct Tokyo like Kyoto

寛永寺 勅願門(国重要文化財)

聖地・京都を江戸に生き写す

天海が考えたのは聖地である京都をなんと江戸の地形に生き写すことでした。京都は、理想の風水地形でありましたが、江戸は、ただ広いだけで湿地帯の湾岸と草が生い茂るだけの台地しかなかったからです。そこで、天海は地形から判断して良否を決めるという中国的な風水をやめて、日本的に「言霊」を使う方法に替えたのです。 つまり、山の形が京都に似ていなくても、土地をたとえば、比叡山なら比叡山としてしまったのです。関東で天台宗の総本山に決めていた川越の星野山喜多院を、天海は東にある比叡山、東叡山に改名し、比叡山に模して上野の山に東叡山寛永寺を作りました。1625年に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するために江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、天海(慈眼大師:じげんだいし)大僧正によって建立されました。天台宗の宗祖伝教大師最澄上人が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。東叡山寛永寺は その後将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院でした。

 

東叡山寛永寺 Violent River

寛永寺 根本中央(旧川越喜多院本地堂)

天台宗の別格大本山と天海の深謀
寛永寺の境内は最盛期には現在の上野公園を中心に 35万5千坪に及び、その他に大名並みの約2万2000石の寺領を有しました。 現在の上野公園の中央部分には 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、清水観音堂、不忍池辯天堂、五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、 子院も各大名の寄進により三十六坊を数えていました。寛永寺の号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。
寛永寺は幕末の上野戦争により、全山の伽藍の大部分が灰燼となりました。明治十二年(1879)、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、上野公園の北側に根本中堂として再建されました。現在の上野広小路は江戸時代当時の寛永寺の参道になります。

 

上野公園と琵琶湖、比叡山 Ueno Park & Biwako、Hieizan

不忍池辨天堂 清水観音堂

上野と京都
 天海の風水計画を実感できる場所が東京にはたくさんあります。 上野の山は比叡山の複製と言われています。その中央に東叡山寛永寺が鎮座していました。 舞台を有する上野の清水観音堂は京都の清水寺を模したことは明らかです。

清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正 によって建立されました。清水観音堂は上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
上野には桜が多数あります。あれは京都にいる天皇が聖地としている花の吉野山を複製したものです。
不忍池は琵琶湖の複製と言われています。明治時代以前は現在と比べて1.7倍の大きさで、特に上野動物園になっている北側は川が流れ込む大きな池 でした。不忍池の中央にはには辨天堂があります。今は橋がかかってますが1625年の建立時には船で渡る島でしたが、1672年には弁天島かに向かって石橋がかけられました。対比される琵琵湖の竹生島にもは有名な弁財天があります。江戸の東を流れる 隅田川は京都の鴨川の複製としたと推測できます。

天海の山王一実神道 New Shintoism by Tenkai

久能山東照宮御社殿
久能山唐門

久能山東照宮
 天海以前の山王神道は釈迦と天照大神は似ているから同じなのだとしていました。 しかし、天海の山王一実神道になってからは、両者が似てるかどうかではなく、 天照大神を釈迦の別名としたため、両者は同じなのだということになってしまったのです。 それが、風水にも当て.嵌められ、京都と江戸を菫ね合わせることに問題が無くなったのです。しかし、川越を東叡山にしたなら、江戸の風水は関東平野一帯に及んでいたはずですが、そうはならなかった。それは、なぜでしょうか? 家康が死んだとき、天海は山王一実神道によって東照大権現という神に祀り上げ、静岡にある久能山に葬っています。この東照宮が、天皇のいる関西方面の邪気をふせぐバリアとなったのです 。家康が日光に祀られることになったのは、 「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。 そして、八州(関東)の鎮守となろう」という家康本人の遺言からである。
東照大権現」の「東照」は東方の浄土「東方浄瑠璃世界」の教主薬師如来なのだそうです。 家康は、母親が薬師如来に祈願して生まれたそうで、薬師如来の生まれ変わり(権現)と言われているそうです。 東照宮とは、「東から照らす神社」という意味で,家康は死後に神となり、日本列島の東側から全国を照らし、守護しています。近年の研究で日光へ運ばれた「神柩」には遺骸はなく、久能山に埋葬されたままという説が有力です

三大東照宮  Three Tosyogu

上野東照宮 川越喜多院にある仙波東照宮

東照大権現
  東照宮は生誕の地・岡崎城の鬼門封じとして創建された滝山東照宮。家康を最初に祭った静岡の久能山東照宮。天海が1617年3月に家康の法要を行った川越の喜多院の仙波東照宮。1617年に下野国日光に改葬された日光東照宮。 日光まで行けない人のための上野東照宮があります。久能山、日光、滝山もしくは仙波の東照宮を三大東照宮と呼んでいます。 東照社は1645年に朝廷より宮号宣下され東照社は東照宮に格上げされました。
宮は皇室の祖神や歴代天皇、皇室と縁の深い神を祭神とする神社である神宮に次ぐ 格式で本来は嫡男系の皇孫を祭神とする神社なので、東照宮は徳川家康を祭る例外的な神社にになりました。
その後、朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣されるようになりました。 これにより伊勢神宮と東照宮にのみ朝廷からの例幣使が派遣されるようになりました。 例幣使は朝廷より毎年,神社に幣帛(供物)を奉るため遣わされる祭使で 東照宮大権現は天皇の力を借りて神と称されるようになったわけです。 皇室の祖神や歴代天皇、皇室と縁の深い神を祭神とする神社である神宮に次ぐ 格式の嫡男系の皇孫を祭神とする神社である宮である東照宮になりました。 家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。 上野広小路を延長していくと寛永寺の旧本堂(根本中堂)と日光の東照宮につながっています。

日光東照宮の位置  Location of Toshyougu

野東照宮と富士山、北極星の位置関係 日光東照宮本殿

北極星と日光
徳川家康は存命中一度も日光訪れたことがないと言われています。関ヶ原の直前、上杉景勝を討つために下野に出陣した際にも日光のことは微塵も気にかけていません。家康を最初に祭った静岡の久能山東照宮と霊峰、富士山を結んだ先に日光東照宮があります。また江戸からは不動の北辰、北極星の方向に日光東照宮があります。この二つの線の交わるところに日光東照宮が建立されました。家康を最終的に祀る場所を日光東照宮としたのは天海にほかなりません。天海の墓地も日光東照宮の東側の山の中にあります。

輪王寺宮 Prince in Rinnouji-temple 

両大師開山堂

輪王寺の存在意義
  天台宗の二人の実力者、慈恵大師と慈眼大師が祀られているお堂が、上野公園内にある輪王寺です。輪王寺とは、京都にいる天皇の御子が出家し、江戸にやって来て住んだ処なのです。後水尾天皇の第3皇子、守澄法親王天台座主ともなられ、守澄法親王に対しては「輪王寺宮」の称号が勅賜されました。江戸時代は天台宗を管領したのは寛永寺であり、比叡山延暦寺ではなく東叡、比叡、日光の三山を兼帯されました。 輪王寺という名は、宮様個人の称号で、寺号ではなかったのです。現在の輪王寺は慈眼大師天海大僧正自身が尊崇していた慈恵大師良源大僧正(元三大師)が合せて祀られている開山堂と同じ境内に在り、一般には両大師として知られています。となりの古い黒門のそばに建っていたお寺が輪王寺なのです。天海と徳川幕府は御所がないと完璧な京都にならないと考えており、万が一京都にいる天皇の血統が途絶えた際には この輪王寺宮を天皇に擁立することも画策していました。こうして風水のひどかった江戸は、風水的にも日本の中心地になりました。 御所の複製と言える輪王寺宮が作られたことで、江戸を京都化する風水の秘術が完全な形になったです。

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輪王寺黒門
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